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03/07/04

外国語を話す

ヴェネツィアでふた組の日本人の女の子たちを見かけた。ひと組はレストランで、私たちがデザートに手をつけ始めた頃、ふたりは席に着いた。ヴェネツィアのような観光都市ではメニューは4カ国語、カメリエーレも数カ国語を話すというのは珍しくない。でも、日本語は彼らの守備範囲外だ。そのふたりは料理を注文するのでさえ、会話集片手にたどたどしい英語を話していた。連れは帰り際、彼女たちに「がんばれよ」とだけ言った。

もうひと組は、リアルト橋のたもとのアクセサリー・ショップ。自分たちの買い物を終え、会計をする間に、彼女たちの声が耳に入ってきた。どうやら、ディスプレイされている商品の色違いが欲しいらしい。「あなたが持っているガイドブックの後ろには、そんな時の会話集が付いているから、そのページを店員に見せればいいのに」と思う。話せなければ話せないで、意志を伝える方法はあるのだから。結局彼女たちは持てるイタリア語を総動員して、なんとか目的を達成したようだ。彼女たちがどうしようもなくなってしまったら、私に助けてやれと言うつもりだったと、連れは店を出てから言った。

世の中には語学の感がいい人というのが確実に存在していると思う。大学時代のベルギー人の先輩は日本語、ラテン語を含めて6カ国語を操った。バイト先の友人は、複数のことばを話せる理由を「勉強したの」とこともなげに語ったが、彼女の学習時間は明らかに他の人よりは短いものだった。彼らは違うことばを、憶えて使うということを普通の人よりは短い時間で達成できているのだ。語学は苦手ではないが、素直に、私は彼らを羨ましく思う。

日本人の外国語力(つまりは英語力)と英語教育についてはいろいろなかたちで話題になるが、その多くが「時間をかけて学習しているにもかかわらず日本人は英語が話せるようになっていない」という点に終始している気がする。

でも、それは当たり前のことではないかと、私は思う。第一に、従来行われてきた英語教育は文章を読むことのトレーニングであり、聞き、話すということに重点を置いていないのだから、それで話せるようになるわけがない。第二に、幸運なことに日本は過去の歴史において、日本語以外の言語の使用を強制されたことはない。また、国境をひとまたぎすれば違う言語を話す国へと行けるヨーロッパなどと違って、他の言語を話す必要性が少ない。第三に、日本語の持つ特性。日本語は他の諸言語に比べて少ない音(おん)で構成されているため、他の言語を学習する際、必ず”日本語にはない音”を練習しなければならない。語順もヨーロッパの諸言語とは異なる(アジアの言語とは共通していることも多い。特に韓国語・朝鮮語とはほぼ同じである)。文字も漢字以外は他の言語を学ぶ時に新たに学ばなければならない。つまり、学習しなければならない部分が多いのである。

そして、道具としてのことばをいくら習得しても、話す”内容”がないのでは、会話にならない。「これを話したい」という何かがなければ。その部分が一番大切なことなのだと思う。

そんな理由もあって日本人には外国語の苦手な人が多いのは確かだけれど、それでもそれなりに相手のことばを話そうとする姿勢は、大切なことだし、良いことだと思う。日本に来ようが、どこの国へ行こうが、無理矢理英語だけでことを済まそうとする、相手が英語を話さないと「英語も話せないのか」と小ばかにする、そんな人たちよりはよっぽどいいではないか。

※ CinemaItalia に 2001/04/08  に掲載した記事の再掲です。

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